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講演をする丹野さん
2024.01.22

若年性認知症と診断されたあの日から10年 〜認知症当事者 丹野智文さんの歩み〜

仙台市に住む丹野智文さんは、2013年に若年性認知症の診断を受け、現在は企業で働きながら、当事者の支援や認知症の啓発活動を行っています。2023年には、丹野さんの実体験をもとにした映画「オレンジ・ランプ」が公開されました。


認知症と診断されて10年。生活や仕事、そして社会が変化していくなかで、どんな経験をし、どんな思い抱いてきたのか。丹野さんの10年間の歩みに迫りました。


過去の丹野さんのインタビュー記事はこちら(~若年性認知症当事者 丹野智文さんインタビュー~ 「自分で決めて、自分で動く」ことが当事者や家族の笑顔に


目次
・ふとした瞬間に、“確信”を持つことができない
・“認知症でもできる仕事”ではなく、“認知症だからできる仕事”がある
・当事者同士だからこそ、わかることがある
・認知症当事者の声が社会を変える

丹野智文さん
宮城県仙台市在住。仙台市の自動車販売会社に勤務しており、2013年に若年性アルツハイマー型認知症と診断される。現在は同社にて認知症当事者として認知症関連の啓蒙活動や、認知症当事者が元気になるための企画、仕組みづくりに取り組む。2023年には自身の半生を描いた映画「オレンジ・ランプ」が公開された。

ふとした瞬間に、“確信”を持つことができない

インタビューに答える丹野さん

――2013年に認知症と診断され約10年間が経過されました。まず、症状の変化について教えてください。


最初の症状は、仕事中に「同僚の顔と名前が思い出せない」ことでした。当時、38歳のときです。その症状は今も変わらず、過去に一緒に働いた同僚に会っても、半分ぐらいは顔と名前が分からない状態ですね。


人の顔を認識するとき、常に“確信がない状態”なんです。


――“確信がない状態”とは、具体的にどんな感じでしょうか?


「この人は、〇〇さんで合っているかな」と自信が持てない感じです。顔の誤認識も増えていて、街中で娘や友人だと思って声をかけたら、実際は違う人で怒られたことが何度もあります。あとは、物忘れも多いですかね。ただ、認知症というと「スパっと忘れる」といいますが、そんなこともなくて「なんとなく記憶が残っている感覚」です。


――「なんとなく記憶が残っている感覚」とはどのような感覚でしょうか?


認知症は“食べたメニュー”ではなく“食べたこと自体”を忘れるといいますが、私の場合それはありません。


「お腹が空いたけどご飯食べたかな? でも、食べたような気もするし……」といった感じで“食べてない”と確信することはありません。それは、自分が認知症であることを受け入れているからかもしれません。


――「物忘れがある」、「思い出せない」などの症状にも、微妙な“違い”や“度合い”があるんですね。


“認知症でもできる仕事”ではなく、“認知症だからできる仕事”がある

インタビューに答える丹野さん

――次に仕事面のことを聞かせてください。認知症と診断されたことで、どんな影響がありましたか?


勤務先は、認知症発症前から勤務していた仙台の自動車関連の会社から変わっていません。認知症発症前は営業をやっていて、お客様と話をすることが得意だったこともあり、トップの営業成績を挙げていました。どうすれば、お客様とより良い関係を構築できるか、いろいろな工夫をしていましたね。


しかし、認知症と診断されたことをきっかけに、営業の仕事を離れることに……。大きなショックを受けましたね。


――営業の仕事にやりがいを感じ、大きな結果残していたこともあり、受け入れられないですね……。その後、どんな仕事をしていたのでしょうか。


事務関連の仕事をすることになります。しかし、事務をやるなかで脳疲労が溜まってきて、急に脳が動かなくなって眠りかけみたいになることが少しずつ増えてきました。


そんなとき、上司から「喋りが上手いんだから採用をやったらどうか?」と声をかけてくれて、採用関係の仕事をするようになったんです。


――採用関係の仕事へ変更したことで、苦労したのではないでしょうか?


それが、採用の仕事が自分に合っていたようで、うまくいったんです。もともと営業が得意だったこともあり、仕事の楽しさや辛さをそのまま学生へ伝えるようにしていたら、採用試験を受ける人が増えたみたいです。なかには「丹野さんがいたから応募した」と言ってくれる学生もいました。これはうれしかったですね。


その後、認知症に関する講演依頼が多くなっていき、その状況を社長に相談したところ、「100%の力でやってみたらどうか」と言ってくれて。現在は、会社の業務として、全国での講演活動をはじめとした認知症の啓蒙活動を主軸に働いています。


―――もともと認知症に対して理解のある会社だったのでしょうか


いえ、私が診断された当初は、会社内で認知症の理解はありませんでしたね。腫れ物をさわるようで、周囲もどう接していいか分からなかったみたいです。

しかし、ある新入社員の女性と一緒に働くようになったことで、社内の様子が変わっていきました。


――どのように変化していったのでしょうか?


その子が認知症について全然知らなくて、私に偏見なく接してくれたんですよね。


ある日、「暑いからビール飲みたいね」と話すと、「え、丹野さん認知症なのにビール飲めるの?」と言われたんです。それで「みんなは、“認知症の人ができること・できないこと”を分からないのか」と気づきました。


――その方が偏見なく接してくれたことで、会社の人の偏見もなくなっていったと。


一緒に働く人たちが、自分にできること・できないことを確認してくれるようになりました。「この仕事量でいいか」といわれたときに「もうちょっと仕事をくれませんか」と、自分から提案するようになりましたね。


認知症の人が仕事をするために大切なのは会話だと思っています。私の場合、最初は誰でもできる簡単な仕事をやらせてもらっていたのですが、会話がないと「自分には役割がないんだ」という感覚になるときがあるんですよね。


――会話を通じて、理解が広まっていったんですね。仕事において、最も苦労したことをおしえてください。


一番は、自分のプライドとの葛藤です。当事は認知症になったことで、「他の社員よりも出世しにくくなる」といわれていて、仕事面でどんどん後輩に抜かれていきました。この状況はきつかったですね。


「認知症があっても丹野さんは働けているからいいよね」といわれることもありますが、こうした出世しづらい状況を受け入れることが難しかったですね。

インタビューに答える丹野さん

――その状況と気持ちをどうやって受け入れましたか?


家族の存在ですね。当時、私の子どもは小学生と中学生でした。家族を養っていくためには、「なんとしても働かなければ」と思い、だからこそ現状を受け入れられたと思います。


それに、「難しい仕事をやって失敗するよりも、誰でもできる仕事をちゃんとやって認めてもらおう」という気持ちが芽生えていました。だから、新人がやる仕事でもしっかりやろうと思えたんですよね。


――営業から事務、採用、認知症の啓蒙活動と、会社から求められる役割が変わる中で気持ちに変化はありましたか?


自分の役割は大きく変わっていきましたが、自分がやってきたことが少しずつ会社に受け入れられるようになっている状況は、うれしいですね。

今の啓蒙活動は、他の人にやれないことをやらせてもらっています。“認知症でもできる仕事”ではなく“認知症だからできる仕事”なんですよね。

とても、ありがたいです。


当事者同士だからこそ、わかることがある

――この10年間、会社を通じた啓発活動に加えて、当事者の方の支援活動も広げられていますね。


はい、2015年に、認知症当事者が、同じ当事者やその家族の相談に乗る「おれんじドア(※)」を立ち上げました。現在、この活動は、自治体やいろいろな人の協力のおかげで全国に活動が広がっています。


当初は、“認知症当事者が認知症の人の相談に乗る”という取り組みがここまで広がるとは思いませんでした。認知症の相談を認知症当事者が受けるなんて誰も想像してなかったと思います。


おれんじドア…2015年に丹野さんが立ち上げた認知症当事者が運営する認知症の相談窓口。認知症当事者同士が支え合う活動「ぴあサポート」の一環で、認知症本人や家族の不安を解消し、思いを共有する場として現在は全国で活動が行われている。


――これまで、たくさんの当事者との交流があったと思います。最も印象に残っている“人との出会い”のお話を聞かせてください。


私が、認知症の方の相談に乗る「ぴあサポート」をしていたときの話です。相談に来られたのは90歳代のレビー小体型認知症のおじいちゃんと娘さん。その方は「幻覚」があり包丁をもち暴れて警察沙汰になった経験があったようです。自分のベッドの下で若い男が自分の奥さんに手を出そうとしていたのが見えたようで……。


その話を聞いていたら、隣にいた娘さんが「そんなの誰も見えないから!!」って怒ったんです。

その瞬間、「ぴあサポート」の仲間がこう言ったんです。

「娘さん、見えないのも正解だけど、見えるのも正解だからね。私も見えますから。」と。


――当事者だからこそ、伝えられる言葉ですね。


すると、おじいちゃんが「ここに来てよかった」って泣き出したんです。この話をすると変人あつかいされて苦しい思いをしてきたみたいです。


しばらく話をきいて「また、きていい?」っていうから「ここには見える人もいっぱいいるから、いつでもきてください」って返しました。その方は数ヶ月後には別人みたいになってて、症状も半分ぐらいに落ち着いていました。


――当事者の方に投げかける言葉で、その人の思考や行動が変わると。


認知症当事者の方と生活するうえでは、環境を考えることが大切です。


「徘徊(ひとり歩き)」という言葉をひとつとってもそうで、原因は本人ではなくて家の中や施設の中にあるんですよ。たとえば、認知症になったおじいちゃんが電球を変えようとすると「危ないからそこに居て!」って怒られる。だから居場所がなくなったり、気持ちが沈んで見つからないように家から出ていくんですよ。


社会でよく取り上げられるのは、“認知症の徘徊をどうやって防ぐか”ということ。でも、そこは視点が違っていると思うんです。出て行った人を無理やり家に連れ戻しても監視が厳しくなってさらに居場所がなくなるでしょう。そして、また本人が死にたくなる。


まずは“家の中に居場所を作る”ってところに視点がいかないとダメなんじゃないかと思います。


認知症当事者の声が社会を変える

インタビューに答える丹野

――認知症について社会の認識と当事者の認識の間にはさまざまな乖離がありそうですね。


はい、周りの人の心配な気持ちはわかりますが、やさしさや心配が本人の自由を奪ってしまうというのも分かってほしいですね。


これは私が妻にかけられた言葉ですが「心配はするけど信用してあげる」と言われたことがあって、うれしかったのを覚えています。だから今の私はこうして自由に生きられているんです。


――丹野さんからみて認知症を取りまく社会は変わってきていますか?


変わったと思うのがひとつ、変わっていない部分もひとつです。


少しずつですが認知症当事者の意見も取り入れようとする動きも広がってきました。ただ、何か認知症に関する取り組みをやろうとするときに、最初から当事者を介入させてくれることもありますが、できあがったものに対して「どう思うか?」と聞くだけのケースも多いです。


認知症当事者が自分の意見を言える、という認識を持っていない人も多いですから。やはり当事者が表に出て現状を伝えることが大切だと思います。


――最後に、丹野さんが10年間活動を続けてこられた、その原動力を教えてください。


ひとつは、“家族の存在“ですね。子どもたちのためにも元気でいたいという気持ち。

二つ目は“会社で働かせてもらっている”という意識。生活に対して安心できます。

三つ目は“仲間たちの出会いと笑顔“です。全国で講演活動をさせていただいていますが、それ自体が生き甲斐ではありません。講演会は当事者を笑顔にするための手段だと思っています。


目の前の1人の人が笑顔になる活動をずっとしていきたいです。その結果、社会が変わって欲しい。認知症の基準や、福祉サービスも時代に合わせてみんなが利用しやすいかたちに変わっていって欲しいですね。


文/藤本皓司



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