{{ header }}
{{ body }}
スキップ
2023.10.25

母が認知症にもなった。でも、“子どもを思う気持ち”は変わらなかった【恩蔵絢子さん 基調講演レポート】

高齢化社会になり、誰しもが認知症と無関係でいられなくなった現在、認知症に不安や恐怖の感情が付きまとっています。私たちは、どうすれば認知症と共に生きることができるのでしょうか。


このほど行われたオンラインセミナー「第7回『共に生きる』認知症を考えるオンラインセミナー~Talk with 話そう。認知症のこと」では、基調講演として、脳科学者で認知症の母を介護した経験のある恩蔵絢子さんが登壇。自身の経験から、認知症との共生について語っていただきました。


恩蔵絢子
脳科学者。専門は自意識と感情。一緒に暮らしてきた母親が認知症になったことをきっかけに、診断から2年半、生活の中でみられる症状を記録し脳科学者として分析した『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社)を2018年に出版。現在、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員。近著に『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか』(中央法規)がある。


目次
・「認知症で“その人らしさ”は失われてしまうのか」母の介護を機に疑問に
・母に起きる変化、でも“母らしさ”は変わらない
・「料理の時間を楽しめるように」ソファに座るだけだった母に起きた変化
・認知症にもなっても変わらなかった「子どもを思う気持ち」
・ムダと思われることにこそ、その人を知るチャンスがある


「認知症で“その人らしさ”は失われてしまうのか」母の介護を機に疑問に

「認知症にならないようにするにはどうしたらいいですか」――。


私が認知症の母と暮らした経験があり、認知症の研究をしていると知ると、まず受けるのがこの質問です。みなさんも、認知症に対して、不安や恐れの感情がつきまとっていませんか?実は私自身も例外ではなく、母が認知症かもしれないと知ったとき、怖くて仕方ありませんでした。


認知症は治す薬がなく、進行性と言われています。母は、この先いろんなことができなくなり、人格も変わり、寝たきりになり、家族のこともわからなくなってしまうのではないか。そして私自身が一番怖いと思ったのが、「母は、この先母でなくなってしまうんじゃないか」ということです。


これが問題の核心でした。


母に起きる変化、でも“母らしさ”は変わらない

母はピアノの先生として働きながら、趣味で合唱団に入り、時にはボランティアで海外に歌いに行く積極的で明るい人でした。その上、家事の一切を一人で引き受けてくれていました。そんな母が、2015年秋、65歳の若さで「記憶の認知症」と言われるアルツハイマー型認知症と診断されました。まず初期にどんなことが起きたかというと「味噌がない。買ってくる」と車でコンビニまで行ったものの、違うものを買ってくる。これまでの母だったらしなかった小さな失敗が毎日続くようになりました。


母は次第に真っ青な顔で、ただソファに座る日々を送るようになり、料理もできなくなってしまいました。アルツハイマー型認知症になると、人格が変わってしまうというデータがあります。神経症的傾向が上がり、様々なことを不安に思うようになり、不安が高じて妄想的になる。活動的で好奇心にあふれた人がどこにも行きたがらず、人に会いたがらなくなる。これこそまさに、母に起きた変化でした。ただ、私は43年間母を見ていて「これは本当に“その人らしさ”なのか」と疑問を持つようになりました。だとしたら、認知症の人はみんな同じ性格、ということになります。そんなことがあり得るのでしょうか。


ある日、真っ青な顔でソファに座る母に、ちょっとふざけてみたんです。すると、母は昔と同じ笑顔を私に向けてくれました。「こういう顔で笑うことこそ、母らしさだったんじゃないか」――。そう気づいた私は、認知症で本当に人格が変わるのか、0から確かめてみたい、と思うようになりました。


「料理の時間を楽しめるように」ソファに座るだけだった母に起きた変化

恩蔵絢子さんと母の写真

そこで病院に行き、母の脳を調べてもらったところ「海馬が年相応以上に縮んでいる」と言われました。海馬とは記憶をつかさどります。脳科学的には、海馬が傷ついたあとのことは覚えられないので、最近の出来事は思い出せない。ただ、昔の記憶には問題がない、ということもわかっています。それなら、なぜ昔から得意だった料理ができなくなってしまったのでしょうか。


料理は、簡単なようで工程が複雑です。お味噌汁を作ろうと思って大根を切っていても、途中で何を作っているのか忘れてしまったら、怖くて作業が続けられなくなってしまう。何とか作り終えても、例えばだしを入れ忘れれば「味が違う」と家族から責められ、また落ち込んでしまいます。


海馬の問題だ、とはっきりしたら、解決策を立てることができました。それは、私が一緒に台所に立つこと。そして、母から「今何を作っているんだっけ?」と聞かれたら、横で「お味噌汁だよ」と教えてあげる。そうすれば、母は安心して料理を続けることができました。包丁で切ったりする能力は、脳の別の領域が担当しているため、料理の技術には何の問題もありませんでした。すると、ただ不安な顔でソファに座るだけだった母が、料理の時間を楽しんでくれるようになったのです。

認知症は進行性だから、次々にいろいろなことができなくなってしまうのではなく、手伝ってくれる人がいたら何度でも戻れる。これは大きな気づきでした。


認知症にもなっても変わらなかった「子どもを思う気持ち」

もう一つ気づいたことがあります。2人で料理を作り上げて食卓に並べ終わると、母は決まって「ちびちゃんはどこにいったの?」と言いだしました。うちには子供はいないので、そのたびに「幻覚でも見ているのか」と怖くなりました。ですが、母は昔、料理を作るとまず子供たちに食べさせていました。つまり、母の言う「ちびちゃん」とは、記憶の中の私と兄のことだったのです。母の中で、いかに子供の存在が大きかったのか。アルツハイマー型認知症は、その人が人生で大事にしてきたものがはっきりする、ということだと気づきました。


こうした小さな発見を積み重ねるうち、はじめて母がわかったと思うときがありました。母が認知症と診断されたばかりのころ「大学で授業を持たせてもらうことになったよ」と母に報告したら、その瞬間は「すごいじゃない」と言ってくれたんです。ただ、翌日にはもう覚えてない。大学院まで出してもらったのに、母は私が自立して働くところを見ずに死んでいくのかと、悲しく思いました。


ただ、そんな生活を2年繰り返すうち、ある日母の方から「お仕事頑張ってね」と言葉をかけてくれたのです。大学名など詳細は分からずとも、2年間で「どうやらこの子は仕事を頑張っているようだ」と覚えてくれたようでした。認知症になっても、新しく覚えることができたのです。そして私が「行ってきます」と外に出ていくと、しばらくたってから母がドアに鍵をかける音が聞こえました。それを聞き、私は「母はこういう人だった」と思いだすことができました。


母は、私が小学生のころから、子どもが締め出されたと思わないよう、少し待ってからカギをかける人だったのです。子どもを応援する気持ちや愛情は、認知症になっても変わらない。母の能力ではなく“感情”に目を向ければ、変わらない母を見続けることができるんだと気づいたんです。


ムダと思われることにこそ、その人を知るチャンスがある

恩蔵絢子さんと母の写真

ただ、そうは言っても、私も介護生活に行き詰まったことがありました。母が認知症になり4、5年目のころ、母が横で何か失敗していても「助けよう」という気持ちがわかないのです。私はこのころには、認知症になってもその人らしさは変わらないということは分かっていました。ただ、母を助ける量が、自分の生活を圧迫していたのです。


するとケアマネジャーさんが言いました。「最近、必要な言葉以外を発していますか」。確かに私は、「これ食べて」「着替えて」といった、衣食住に必要なことだけに一生懸命になっていました。「必要な言葉じゃない言葉って、どういうことですか?」。私が尋ねると、ケアマネさんは母に「このお花きれいですね。この花ってピンク色でしたっけ」と声を掛けました。すると母は「何言ってるの、あたりまえじゃない」と答えていました。そこで気づいたんです。「生活上必要ではない言葉を使うと、母の内面に綺麗な世界や、いろんな色が広がっていくんだ」。ムダと思われることにこそ、豊かなその人を知るチャンスがあったのです。


認知症になっても、その人らしさは変わらない。そして、その人らしさとは、その人の感情にあるのだ、と母の介護を通じて気づくことができました。



写真/ご本人提供、長野竜成  文/市岡 ひかり

楽しく、あたまの元気度チェック(認知機能チェック)をしましょう

あたまの元気度チェックへ

メール会員のおもな特典

メール会員には、「あたまの元気度チェックの結果記録」に加え、以下のような特典があります。

身長や体重・運動習慣等を入力するだけで、将来の認知機能低下リスクをスコア化できます。

認知症や介護に関する最新のニュースやお役立ち情報を月2回程度お知らせします。

関連記事

  • 認知症知識・最新情報
  • 母が認知症にもなった。でも、“子どもを思う気持ち”は変わらなかった【恩蔵絢子さん 基調講演レポート】